実験的行為と常識


 

このブログに関して私が問題だと考えている事柄については

この記事で既に考え尽くしている。

考え方のポイントを以下に引用しよう。

このブログに関して私が問題だと考えているのは次の二点。

………………………………………………………

第一点は、
このブログの中で私が
何度も自殺をほのめかしたり予告したりしている事。

第二点は、
このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問。

………………………………………………………

 
第一点については以下の考え方に変わりはない。

………………………………………………………

第一点の問題について自分に弁解の余地はない、………と私は考えている。

自殺は犯罪なのだから、………。自殺は犯罪の予告になる訳なのだから………。
 

ただ、一つだけ主張したいのは

記事を書いた私の目的は以下の2点だった、……という事だ。

①………
自業自得ではあるのだけれど
現在の自分は自殺しなければならない状況に追い込まれている事の説明。


そういう私を
助けてくれる人はいませんか?
………という問いかけ。

 
もちろん、
いい歳をした老人の「甘ったれた」「常識外れの」「お願い」に耳を傾けてくれる人は

読者の皆さんの中に一人もいらっしゃらなかった訳なんだけど、………。
 

私としては

自殺を回避する為に自分が行った可能な限りの努力の一環としてなら

このブログを書き続けた意味は、それなりにあるんじゃないか?

何も言わずに黙ったまま突然自殺してしまうよりは「まし」

なんじゃないか?

………と考えている。
 

あまり名誉なことではないけれど、

その意味でなら、

このブログを自殺に関する一つの情報源として残しておく

………という考え方もあり得るんじゃないだろうか?

………とも考えている。

………………………………………………………

 

これら2つの問題点に対する全体的な結論も変化してはいない。

………………………………………………………

結論は常識的なものだ。

この記事の中で
私は私なりの考え方を主張できる限り主張する。

………その主張に対する判断や判定は
このブログの存続を含めて
現在の読者の方々および一般社会の人々
あるいは国家権力にお任せする。

これ以外にはないはずだ。

………………………………………………………

 

今回の「問答」の中で私が考え続けていたのは主として

第二点
つまり

このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問

……に対してだった。

 
この

第二の問題点
つまり

このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問。

に対する以前の私の主張の底には

一つの重大な問題が存在している

と今の私は考えている。

このブログの本質に関わる重大な問題が、……。

 

このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問。

こういう疑問の立て方、そのものが問題なのではないか?

こういう疑問を立てる事によって
私は私自身を貶めるだけでなく
「共同行為者」としての「彼女」をも同時に貶め辱めてしまったのではないか?

 

実は、それ以前の事情があるのだが、………

既に何度も申し上げた通り

このブログを始めた頃の私の動機はこういう事だった。
 

こういう動機を持った、こういう形式のブログは普通の常識では考えられない。

………そこのところに様々な誤解が生ずる。
 

例えば

もちろん、このブログの中にはストーキング的な表現も含まれている。

………しかし、それは、このブログが持っている多面的な目的の中の一部であり、

しかも、それは固く重苦しい哲学的内容を和らげる為の様々な工夫の一つに過ぎない。
 

………とは言いながら、

この種の問題は扱いが非常に難しい。
 

………今になって考えてみると、

私からのブログの案内に対する「彼女」の応答および対応は見事だったという他はない。

 

私の独創的な提案に対する「彼女」の独創的な応答。

もちろん、その後、現在まで続いている応答にも同じことが言えるのだが………。

 

余りにもノー天気な自画自賛だと言われるに違いないけれど、

こんなところが、このブログに対する現在の私の評価であり実感だ。
 

 
前回の記事に対しても「彼女」からと思われる奇妙(独創的)な応答が寄せられていた。

………それをどう解釈するか?

長い間、私は自分の文章に対する彼女の理解力を過小評価し過ぎていたのではないか?

………最近の「彼女」の応答や反応に関して深く考えてみる時、

そういう風に状況を見直さなければならない、という気分に包まれる。
 

 
ただし、

「彼女」の独創的な応答は彼女の思考能力から生まれたり導き出されたりしたものではない、………と私は考えている。

「彼女」はただ単に、その時その時の直感に身をゆだねているに過ぎない、………はずだ。

一晩に百万円以上を勝ち取る経験を何十回~下手をすると何百回も重ねてきた

凄まじいまでに研ぎ澄まされた勝負師としての直感に身をゆだねているのに違いない。
 

 
一方、

私は、その時その時、自分が持っている思考能力の限界まで物事を考え尽くし

その結果を文章として、このブログにアップし続けている。

………その時その時の私の思考能力の限界は必然的に文章に現れる。

………人間性の限界も。

偽善や浅はかなダマシや卑屈な奴隷根性も、………
 

………それらの限界を「彼女」は決して見逃したりはしない。

「そんなに死にたけりゃ死ねばいいでしょ?」

………………………………………………………

………以上

ここまで

自分の文章に対する「彼女」の応答の独創性について語ってきたつもりなのだが、

考えてみると、

同じ事は皆さんからの応答にも言えるような気がしてきているのは何故なのだろう?

 
真剣に生きている、………という意味では皆さんも「彼女」と同じだから

なのだろうか?

…………………………再び……………………………

………以上、

こんなところで現在の私の思考能力は限界を迎えたようだ。
 

 

実験的行為と常識 ……序文

 

今は4月9日の午後8時。

前回の記事を6日の午後10時にアップした後、7日(金)の午後10時過ぎまで、

深刻な不安感を抱えたまま

丸1日間パソコンに触れずに寝込んで様々な事を考え続けていた。

結果を見るのが怖かったのだ。
 

その後、意を決してパソコンを立ち上げて6日の提案に対する皆さんの反応を見た。

予想通りの「ノー」という結果。
 

………死を覚悟して最終的な決意が定まるのを寝床の中で待った。

覚悟が定まったら何も考えずに2階に直行し行為に及ぶつもりだった。
 

 
………しかし、どうしても覚悟が定まらずに8日(土)の朝を迎えた。

借金取りの訪問とか、電話とか、……

最終的な行動への肩押しになる事件が生じてくれたら、………

等という期待を胸に、その時が訪れるのを待ち続けた。
 

幾つかの事件が生じたのだが、決定的な迫力に欠けている。

………そんな気持ちで頑張っている内に、いつしか眠り込んでしまった。
 

 

 
眠りは死の覚悟の強敵だ。

死を覚悟したら、その緊張を保ったまま最終的な行動にまで突っ走らなければならない。

その事は経験上、分かっているのに、緊張が持続しなかった。

 
案の定、

8日(土)の夜半に目覚めた時には建設的な気分になってしまって死への実感がなくなっている。

理屈の上では死ななければならない事は分かっているのに、………
 

それ以降、

死にたくない自分と死なねばならない事を語りかける自分との問答が

今に到るまで丸1日間続いている。
 

幸か不幸か、今日9日(日)は朝から夕方まで

決定的な決断を迫る借金取りの訪問とか電話といったものは無く過ぎたので

今から朝までは記事を書く時間がとれるなあ、………

そんな気持ちでパソコンの画面に向っている。
 

 
記事を書こうという気になったのは、

上述の問答を続けているうちに

それなりに書き残しておくべき意味のある思考が纏まってきたからだ。
 

今の私にとって最も大切な事は、このブログをどう纏めるか、だ。
 

どうしても自分が死ななければならないのなら

このブログをそれなりに存在価値のあるものとして遺してやりたい。
 

逆に、

考えて考えぬいた結論として、

どう好意的に解釈しても

このブログが残しておくべき価値も意味もない下らない恥ずべきものでしかないのなら

場合によっては、

このブログ全体を自分の手で削除してから死ぬべきなのかもしれない。
 

 
 
死にたくない自分と、死なねばならない事を語りかける自分との問答は延々と続いている。

………その流れの中で、
時としては前者が、……別の時には後者が優位を占めた。
 

そして今、

私自身の心の中では前者、

つまり、このブログは遺すべき意味と価値のあるものだ、………

という実感と、それに伴う考え方が優位を占めている。
 

………という事で、

以下からは、最終的に前者の方向へ向う問答の流れを記事として書き記すことにする。

前者、

つまり、

最終的に、このブログを肯定する、という感じ方、考え方である以上、

結論としては

「創造ネット計画」への肯定

「創造ネット計画」に対する投資の必然性

………というところへまで話が及ぶかもしれないけれど、………
 

現在も私の心の中で延々と続いている問答の流れと同様に

それは話の結果としてそうなっただけの事であり

そういう結論を求めて、この記事を私が書き進めるつもりではない事だけは

皆さんに前もって断言しておきたい。
 

………………………………………………………

………以上、

すっかり前置きが長くなってしまったので、

ここまでを序文としてアップし、一休みしてから本文に向おうと思う。
 

 

千一夜物語? …… ③

手紙にしても論文にしてもブログにしても文章を書く為には、それなりの目標が必要になる。

どういう相手に何の目的で書くのか?

それがハッキリ決まっていないと、

あてどのない漂流のような手紙や論文やブログになってしまう。
 

このブログを始めた動機はこういう事だった、

………という件については既に前回の記事でお話した。
 

………その意味で、

このブログを始めた当初にイメージしていた読者に対しては

こういうブログを始めましたので御覧になって下さい、……という連絡をして

その上で、昨年末までの約7ヵ月間、記事を書き進めて来た訳なのだが、………

その間に、想定していた読者からコメントなどの直接的な反応はなかった。
 

しかし、ハッキリした否定的な反応もなく、

前回の記事でお話したコメントのような

奇妙な方法での奇妙な意思表示としての連絡だけが来たりする状態が続いていた。
 

そういう状態は
私が想定している読者を新しく設定しなおした昨年末以降も変化はなかった。

………………………………………………………

………以上、

ここまでの長い説明で私が言いたかったのは、

このブログを始めた当初に想定していた或る読者からの

奇妙な方法を使っての奇妙な意思表示は現在も続いている、

という事なのだが、………
 

前回の記事で私が行った「お願い」に対する、その読者からの反応は

明らかに「ノー」だと解釈せざるを得ないものだった、と私は感じている。
 

もちろん、残念だとは思うけれど、

人には色々と都合もあることだし、

何よりも最初から

このお願いが、どれだけ「皆さん」の常識の枠を越えたものなのかを
現在の私は深く深く認識し実感している。

のだから、

私としては、

示された「ノー」という意志表示は確かに了承しました、……と応えて

その了承の内容を、この記事の書き方にも反映させる以外にはない。
 

 
………というような次第で、

今日の、この記事は昨日とは全く異なった意図の下に

昨日に語りかけていた方とは異なった方々への語りかけ(お願い)………

として書く他はない。
 

お願いの趣旨は前回までと同じ

このお願いが、どれだけ「皆さん」の常識の枠を越えたものなのかを
現在の私は深く深く認識し実感している。

という私の心理も同じ。
 

前回と違っているのは以下の2点。

第一に、
前回の記事で大きく期待していた或る読者の方からは
明確に「ノー」の意志表示を受けた、………という現実状況。

第二に
もしも投資して頂けるのなら
その意志表示は明朝までに行って頂かなければ
間に合わない、………という現実状況。

 

 

…………………………再び……………………………

………以上、

辛いことだけれど

このブログは今回の記事を最後として終了せざるを得ない可能性が高い、………

と現在の私は考えている。
 

それに伴って

このブログが存続できるかどうか?

………という問題も生じてくる訳だけれど、

………それは、このブログが持っている生命力次第だと思う。
 

前回の記事でお話したように

このブログは幾つもの社会的な問題点を抱えている。

しかし、

それを補って余りある可能性を持った社会的な提案を試みようとしてきたブログでもある。

………と私自身は考えている。
 

それ故に

この問題については

前回の記事でもお話したように

このブログの中で
私は私なりの考え方を主張できる限り主張して来た。

………その主張に対する判断や判定は
このブログの存続を含めて
現在の読者の方々および一般社会の人々
あるいは国家権力にお任せする。

これ以外にはないはずだ。

………と申し上げる他はない。
 

 

…………………………三度目に……………………………

………以上、

ここまで今日の記事を書き終えて思う。
 

私は今までに何度も死にそこなってきた。

死を覚悟していながら最後の決断を下すことができずに死から逃げ帰ってきた。

………しかし、

死から逃げ帰ってきた事によって初めて分かった重要な事柄も多い。
 

 
個人にとって死への決断は

核を保有する大国がミサイルの発射ボタンを押す事に等しい。

発射ボタンを押す事、それ自体は単純で簡単な作業だ。

しかし、

一度それを押したら世界の全てが滅び去るかもしれない。
 

核ミサイルの発射ボタンを押すべき時を

最終的に、しかも冷静に判断する事ができる個人の凄さを思う。

和平交渉をはじめとして、

それを避ける為に必要な手段を可能な限り取り尽くして

それでもなお、発射ボタンを押すべき時………があるのだろうか?
 

 
以上のような核大国の例は別として、

大石内蔵助や西郷隆盛など、

昔の人々の生き方や死に方を考える時、

個人には、それと同じ種類の最終的な決断を下すべき時や瞬間が

確かに存在するような気がする。
 

彼等のような偉人と比べるのはどうかとも思うのだが、………
 
何度も何度も死ぬべきだと信じていた時に死に切れずに逃げ帰ってきた私は

単なる臆病者だったのだろうか?

それとも思慮深い利口者だったのだろうか?
 

少なくとも

過去何回かの「死ぬべきだと信じた時」の私の判断や心理は甘っちょろいものに過ぎなかった

………とだけは断言できる。

………その意味で今回の自分の判断はどうなのだろう?
 

 
改めて

冷静な心の状態を保ったまま価値ある死に赴いた人々の凄さ偉大さを思う。
 

 

………background music………

★ 交響組曲「シェヘラザード」(動画) ★
演奏 …… クラウス・ペーター・フロールが指揮するロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

交響組曲「シェヘラザード」についての解説記事

 

 

千一夜物語? …… ②

 
今は4月6日の午前0時35分。

これからの私の行動および、このブログの今後について

前回の記事で約束した「私の結論」からお話を始めようと思う。
 

結論は常識的なものだ。

この記事の中で
私は私なりの考え方を主張できる限り主張する。

………その主張に対する判断や判定は
このブログの存続を含めて
現在の読者の方々および一般社会の人々
あるいは国家権力にお任せする。

これ以外にはないはずだ。

………………………………………………………

………という事で、
以下の部分から私の主張を展開させて頂こうと思う。
 

このブログに関して私が問題だと考えているのは次の二点。

第一点は、
このブログの中で私が
何度も自殺をほのめかしたり予告したりしている事。

第二点は、
このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問。

 

 
第一点の問題について自分に弁解の余地はない、………と私は考えている。

自殺は犯罪なのだから、………。自殺は犯罪の予告になる訳なのだから………。
 

ただ、一つだけ主張したいのは

記事を書いた私の目的は以下の2点だった、……という事だ。

①………
自業自得ではあるのだけれど
現在の自分は自殺しなければならない状況に追い込まれている事の説明。


そういう私を
助けてくれる人はいませんか?
………という問いかけ。

 
もちろん、
いい歳をした老人の「甘ったれた」「常識外れの」「お願い」に耳を傾けてくれる人は

読者の皆さんの中に一人もいらっしゃらなかった訳なんだけど、………。
 

私としては

自殺を回避する為に自分が行った可能な限りの努力の一環としてなら

このブログを書き続けた意味は、それなりにあるんじゃないか?

何も言わずに黙ったまま突然自殺してしまうよりは「まし」

なんじゃないか?

………と考えている。
 

あまり名誉なことではないけれど、

その意味でなら、

このブログを自殺に関する一つの情報源として残しておく

………という考え方もあり得るんじゃないだろうか?

………とも考えている。
 

 

問題の第二点である
このブログの中で私が行っている事は
新種のストーカー行為なのではないか? …… という疑問。

 

この疑問についても責任を問われて当然だ、………と私は考えている。

そもそも、このブログを始めた動機がこういう事だったのだから、………。
 

 
………この問題の答えは

当時の私のブログが唯一の読者だと想定していた女性、御当人の心の中、

その場所以外にはあり得ない、

………と私は考えている。
 

現在の彼女が、このブログを不愉快で迷惑な存在だと感じているのなら、

私が、これ以上このブログを書き続ける事は明らかなストーカー行為に該当すると思う。
 

そう思うと同時に

今現在も彼女は、このブログを読んでくれているはずだ、………と私は考えている。

このコメントを御覧頂きたい。

このコメントと同時に投稿された他の幾つかのコメントと同様、

多分、どこかからコピーした短い英文を貼り付けたものだと思うのだが、

たとえ子供のような無邪気な悪戯心からのものであるにせよ、

このブログに対して、それだけの「作業」をしてくれる人は滅多にはいないはずだ。
 

………以上の理由から

このブログに対する初めての、これらの意味のあるコメントは彼女からのものに違いない、………と私は判断している。
 

 
今現在の彼女のことは分からない。

しかし、

私が知っている約2年前までの彼女は非常に変わった、とんでもない性格の女性だった。

それと同時に抽象的表現の複雑な文章を短時間で読みこなしてしまう高度な読解力、理解力の持ち主でもあった。

普通の人々が足元にも及ばない、とんでもない経済的能力の持ち主でもあった。

………そのように私は感じており、考えている。
 

 
現在の段階に於いて

もしも「創造ネット計画」に対する真の理解者、救済者、投資者が存在するとしたら

彼女以外の人は考えられない。
 

 
ギリギリのところにまで追い込まれた私は

彼女に最後の救済としての投資を求めずにはいられなかった。

とりあえず15万円程度の現金があれば、

この後1ヵ月程度までは生きている事ができる。

それだけの期間があれば、

死を目の前にして自分の過去を心の底から反省している

現在の私が考えている「創造ネット計画」に関する詳しい説明をする事ができる。
 

決して自覚はしていなかったのだが、

この文章を含めて

そんな焦りに焦った心情が最近の私の文章として現れているのに違いない。

読み方によってはストーキングそのものである表現として。

………………………………………………………

………以上、

現在の私の心の底にある「主張」を述べさせて頂いた。

この記事は、とても「作品」等とは言えるはずもない「天然」そのものの私の心情の表現だ。

読者の皆さん(特に彼女)の御協力によって

この「天然」の心情を手がかりとして

「作品」としての新しい「創造ネット計画」の実現に立ち向かう機会を与えて頂けたなら、

皆さんにどれだけ感謝してもしきれないに違いないと思う。
 

それと同時に

このお願いが、どれだけ皆さんの常識の枠を越えたものなのかを

現在の私は深く深く認識し実感している。

………というような次第で………………

話は以下の通り振り出しに戻る。

この記事の中で
私は私なりの考え方を主張できる限り主張する。

………その主張に対する判断や判定は
このブログの存続を含めて
現在の読者の方々および一般社会の人々
あるいは国家権力にお任せする。

これ以外にはないはずだ。

…………………………再び……………………………

………以上、

最後に、この記事のタイトルに関連したこの記事を御紹介して

私の主張を終了させて頂こうと思う。
 

 

千一夜物語? …… ①

 

今は4月5日の午後9時20分。

昨日の記事は低レベルの「作品」になってしまったなあ、………

もう少しましな文章、………いや、凄い記事が書けると勢い込んでいたのに、………

………という反省を朝から噛み締めながら万年ベッドに寝込んでいて先ほど起き上がったところだ。
 

起床して、とりあえずパソコンを立ち上げ、4~5人いらっしゃるはずの読者の反応を確認してみた。

結果は予想通り無反応あるいは拒否的反応。
 

………それよりも、気になるのは昼頃に近くの交番の巡査の方が巡回に来られた事。

余りにもタイミングが良いので、とても偶然とは思えない。

4~5人いらっしゃるはずの読者は皆さん私の住所氏名を御存知の方ばかりだと思うので

その内のどなたかが何等かの意図をもって警察に通報なさったのかもしれない。
 

巡査の方は私に対する敬意と共感に溢れているように感じられた。

まあ、それが今の段階では民主主義国家である日本の警察署員さんとして在るべき自然な態度なのだろうと思う。

今日の巡回が単なる偶然ではなく何等かの意図を持った下調べ等であったとしても、………。
 

 
………そういう事情もあって先ほどまで万年床の中で私が考えていた事は

これからどうしたらいいだろう?

そんな事ばかりだった。
 

特に、このブログの今後が問題の焦点だった。

このブログを残して私が逝く事に、どれだけの社会的な意味があるのだろう?

………いや、それ以前に、このブログは一般社会の常識から見て存続を許されるべきものなのだろうか?
 

………それらの点について考え続けた果てに

私なりの結論が浮かび上がって来たのが午後9時20分頃、つまり起床の直前。
 

今は4月5日の午後10時50分。

考えた末に私が辿り着いた結論を述べると少し長い記事になると思うので、

とりあえず今はここまでの文章をアップして、

その後から時間をかけて詳細な文章を仕上げようと思う。
 

昨日と同様、

時間をかけて書いた私の結論が、どれほどの意味とか価値のある「作品」になるかは分からないけれど、

可能な限りの努力をしてみようと思っている。
 

 

「作品」としての「創造ネット」について

 

今朝、午前5時前に前回の記事をアップし終えた後、

思いっきり運動した後のような心地よい疲労感の中で

夢も何も見ず昼過ぎまで熟睡、……というより爆睡した。

非常に複雑な方程式(問題)を解き終えたような「割り切れた」という感覚もあった。
 

………その後、

借金取りの訪問や電話を気にしながら

食事や雑用で時間をつぶしたり

久しぶりに音楽を聴いたりして今は4月4日の午後8時30分。
 

この間、自殺とか死については全く考えなかった。

その件に関しては具体的な方法についても抽象的あるいは宗教的な議論に関しても既に考えられる限りの事は考え尽くしている。

例えばこんな本を参考にして、それなりに完璧な装置も二階に設置してあるし、

昨日はこの本を読みながら死に向かう最終的な決意が生じるのを待ち続けていたし、………。

然るべき時が来れば即座に対応できる自信はある。
 

………という事で、

考えられる限りの準備を整えた上で、

少なくとも、
これから明朝までの12時間位の間は記事を書く事に専念できるなあ等と考えながらパソコンを立ち上げたところ。
 

………………………………………………………

 
………このくらいで前置きを終了して本題に入ろう。

前回と同様、ブログというものに対する私の信念を述べる事から記事を再開しようと思う。
 

 
ブログは読んで貰ってナンボのもんだ、と私は考えている。

読んでもらう為には面白さが必要。

………でも、面白さって何なんだろう?

 

ブログの面白さの要素として最も大切なものは「ものがたり性」だと私は考えている。
 

ブログの底に「ものがたり」を仕掛けておいて、

その「ものがたり」の中に読者を引き込む事ができたら、

半ば以上ブログは成功し長続きする。

………と言えるんじゃないだろうか?
 

もちろん、

その「ものがたり」は魅力的で

一目で人々を惹きつける力を持っている必要がある訳なんだけれど、………。
 

 
魅力的で一目で人々を惹きつける力を持っている「ものがたり」によって

圧倒的多数の人々(特に男性)を惹きつける事に成功したブログの実例を私は知っている。

約1年半くらい前までコメント書き込みの常連として関わっていた或るブログだ。

筆者(管理者)は30歳前半の美人と自称する女性。
 

 
しかし、

非常に残念な事に彼女の「ものがたり」は所謂(いわゆる)「天然」であって「作品」じゃなかった。

………だからこそ面白かった、………とも言えるのだけれど、………。

「天然」ほど、もろくて危険なものはない。
 

案の定、

彼女のブログは迷走した末、約1年半前に自爆して急停止したまま現在も動き出す気配がない。
 

 
もちろん成功した場合の満足感は他の人には分からないほどのものだと思う。

しかし、
ブログを本気で書くという事は

筆者の人生そのものに非常に重大な作用を及ぼす危険な作業なのだ、………と今の私はつくづく痛感している。

ささやかな私自身の体験からも、その事は断言できる。
 

 
………話を元に戻そう。
 

ブログの面白さの要素として最も大切なものは「ものがたり性」だと私は考えている。
 

ブログの底に「ものがたり」を仕掛けておいて、

その「ものがたり」の中に読者を引き込む事ができたら、

半ば以上ブログは成功し長続きする。

………と言えるんじゃないだろうか?
 

もちろん、

その「ものがたり」は魅力的で

一目で人々を惹きつける力を持っている必要がある訳なんだけれど、………

それだけじゃダメだ。

その「ものがたり」は何か非常に重要な或る条件を満たしている必要がある。
 

 
敏感な読者の方々は既に感じていらっしゃるに違いないと私は思う。

………そう、

それは「天然」じゃなくて「作品」としての「ものがたり」でなければならない、

………という条件だ。
 

「作品」というものは完成し完結している。

………だから安定していて人々が安心して見ている事ができる。

作者も自信を持って「作品」として人々に、つまり社会に、提出する事ができる。
 

一方、

「作品」は「製品」じゃないのだから完成し過ぎていてはいけない。

安定し過ぎていてもいけない。

………その辺りの按配が非常に難しい。

………………………………………………………

 

………ところで、

突然の事で恐縮なのだが、………

ここで、このブログ、

つまり「創造ネット」および「創造ネット計画」の話を

始めさせて頂くことをお許し願いたい。
 

昨年の5月以降、約2年弱の間、私はこのブログつまり「創造ネット」を実験的なブログとして書き続けてきた。

「実験的なブログ」とは「天然ブログ」だ、という事に他ならない。

………しかし、
「実験的なブログ」としての「創造ネット」は既に行き着くところへまで行き着いた、

と今の私は感じている。
 

もしも、現在の状態のまま私の命運が尽きた場合は

当然の事として「創造ネット」は終了する事になる訳だけれど、………

万が一にでも、ここで踏み留まる事が出来た場合、

「創造ネット」は現在とは全く異なるブログに生まれ変わるはずだ。

「実験的なブログ」つまり「天然ブログ」じゃなく「作品」としての「創造ネット」として。
 

「作品」としての「創造ネット」のアウトラインは既にこの記事に表現してある通り。
 

読者参加型の「ブログ作品」としての「創造ネット」の底の底に仕掛けてある「ものがたり」については

読者の皆さんの読解力および想像力および創造力にお任せする。

ただし、

「作品」としての「創造ネット」の管理者(製作責任者)としての私の最も大切な仕事は

「作品」が「天然」になってしまわないように最大限の注意を払う事にあると考えている。

………………………………………………………

 

以上、

そろそろ時間が来たようなので

この辺りまでの文章で今回の記事を終了してアップしておこうと思う。
 

前回の記事で私は次のような事を口走った。

前回から書き始めた、この記事に関して私は或る程度の自信と見通しを感じている。

この記事をブログの最後に添える事によって、

昨年の5月以来、1年近くに渡って書き続けてきた、このブログの本当の意味とか面白さとか真実が

突如として浮かび上がってくるような記事を書く事ができるかもしれない。

………そんな予感に何となく包まれて、この記事に昨夜から向うことにしたような次第だ。

 

 
上記した目標にどこまで近づく事ができたか、あまり自信はない。

けれども、この記事を私が楽しみながら書き続け、書き終えた、

………とだけは確かに言える。
 

記事内の様々な場所に密かな「ものがたり」を仕掛けつつ、

「天然ブログ」の筆者としてではなく、

「作品ブログ」の筆者として。
 

 

映画「ティファニーで朝食を」について …… ②

 

今は4月4日の0時25分。

非常に遅い夕食をとってからパソコン画面に向い始めたところ。

ブログというものに対する私の信念を述べる事から、この記事を再開しようと思う。
 

これは以前から言っている事だけれど、………

ブログは読んで貰ってナンボのもんだ、と私は考えている。
 

確実に読んでくれている人々が4~5人程度というこのブログなので、

この際、量的な問題は別として、

質的に或る程度の人々に読んで貰うには、当然の事ながらそれなりの面白さをもった記事を書く事が要求される。
 

その意味で、

前回から書き始めた、この記事に関して私は或る程度の自信と見通しを感じている。
 

この記事をブログの最後に添える事によって、

昨年の5月以来、1年近くに渡って書き続けてきた、このブログの本当の意味とか面白さとか真実が

突如として浮かび上がってくるような記事を書く事ができるかもしれない。

………そんな予感に何となく包まれて、この記事に昨夜から向うことにしたような次第だ。
 

必ず成功するとは限らない。

失敗するかもしれないけれど、夜明けまでには時間があるので書ける所まで書いてみようと思う。
 

 
…………という事で

最初は、

これ以上愚かで悲惨な状態はない、と言っていい程のところにまで追い詰められている現在の私の生活の描写から話を始めよう。

この惨めさ、愚かさを止揚する事によって
その中から今までとは違う、
新しい“ひとつの統合体としての概念(考え方)”が生まれてくる

ような記事が書けたら最高だと考えている。

 

………………………………………………………

 
さて、

私の窮状は極限に達している。

最大の問題は1つ目のクレジットカードが2度目の不払いに陥っている事。

ガスの支払期限も3日前に切れているし

電気の支払期限は4日後に迫っている。
 

………現金がないのだ。

収入の見通しが全く立たないので詳しい計算はしていないが、合計で15万円ほどは不足していると思う。

なんとか仕事を探そうにも、生活保護を受けようにも、当座の現金がない事にはどうにもならない。

怖いお兄さんが本格的に支払いのお願いにくるのは時間の問題だろうし、………

………だから死ぬしかない訳なんだけれど、………

書いていて我ながら何と馬鹿馬鹿しい自殺原因なのだろうと思う。

………でも本当なんだから仕方ない。
 

 
考えてみれば、

………………こんな風に、

或る一面で徹底的にアホで間抜けな人間であるくせにプライドだけは滅茶苦茶に高くて、

他人を見下す態度が身についてしまっている私のような人間が

今まで生きてこられたのが不思議なような気がする。
 

………………………………………………………

 
………以上、

ここまで描写してきた私の窮状と

そっくり(瓜二つ)の窮状に陥る人物を描いているのが

「ティファニーで朝食を」という映画である事を皆さんは御存知だろうか?
 

私と瓜二つなのは誰あろうオードリー・ヘプバーンが演じているホリー・ゴライトリーその人だ。

嘘だと思ったらこの記事の「あらすじ」の結末の部分をよく読んで頂きたい。
 

 

全体としてこの映画が描いているのは

分不相応な夢を追い求めている
魅力的ではあるけれど愚かな女性(ホリー)と、

そういう彼女を優しく見護っている
作家志望の男性(ポール)との恋愛だ、

 

映画は男性(ポール)に対する女性(ホリー)の全面降伏によって「めでたしめでたし」 … のハッピーエンドを示唆して終わる。

結婚、エンゲージリング、が重要なキーワードおよびキーアイテムになっている。
 

ちなみに、この映画に対する多くの人々からの評価や感想はこんな感じ
 

………………………………………………………

 

………そのような「あらすじ」を全く知らずに私はこの記事の「………background music………」としてこの動画を使った。
 

イメージとしては生まれ変わった私が理想とする人生 …… ってな感じ。
 

余りにも惨めで悲惨な私自身を語っている記事を

ほのぼのとした雰囲気を持ったBGMによって和らげたかったのだ。
 

「ムーンリバー」を歌っている「ホリー」の美しさ。
 

その様子を上の階から眺めている「ポール」は、

天国から娘を見護っている父とようなほのぼのとした愛のムードに満ちていて

上述した目的にピッタリだった。
 

しかし、
後になって映画「ティファニーで朝食を」の内容を詳しく調べてみてビックリ仰天したような次第。
 

 
………それ以来、この動画と、

この動画を「………background music………」として使っている「私の近未来」という記事を

どう扱うか、が私にとっての大問題になってしまった。
 

 
あの動画を使う事によって

私自身は「ポール」の立場から「ホリー」を優しく見護っている

というイメージで記事の雰囲気を纏め

そういう記事によって、

このブログ、つまり「創造ネット」の雰囲気全体を纏めるつもりだったのだが、
 

よく考えてみれば状況は逆転してしまっているのだ。

私は「ポール」ではなくて「ホリー」なのだから。

しかも「ホリー」は自身の愚かさと悲惨さを補って余りある美貌の持ち主であるのに対して

私は73歳の頭の禿げた老人なのだから、………。
 

 
………それでも私は頑張ってこの記事を削除せずにブログを纏めようとして来た。

死を恐れずに自分の理想や優しさを貫ける、……はずの自分の強さを信じて。

「ホリー」、つまり読者の皆さんを死後の世界から優しく見護る心の広さを持っているはずの「ポール」としての自分を信じて。
 

しかし、その頑張りも昨日の一件で限界に達してしまった。
 

 
死に切れなかった私が最初に行ったのはこの記事の削除だった。
 

 
そして今、この記事を私は書いている。

映画「ティファニーで朝食を」と「創造ネット計画」の関係について考えに考え抜いた末に浮かび上がってきた或るイメージを頼りとして。

 

………………………………………………………

 
以上、

今は4月4日(火)の午前4時20分。

ここまでの文章をアップしておいて今日の行動に関する思考作業に移ろうと思う。

これからどうするか、今現在の私は白紙の状態だ。

ガス会社やクレジット会社の動向によっては本格的に死を決断しなければならない事態が訪れるかも知れない。

………それはそれで仕方のない事だと思っている。

その時はその時なりに、このブログを纏める他はない、………とも考えている。
 

 

映画「ティファニーで朝食を」について …… ①

 

今朝は7時前から自殺の準備を整えて

二階の一室で自分の心の底から最後の決意が生ずる瞬間を待っていた。
 

………しかし、どうしても最後の決意が生じなくて、………

午後3時過ぎに自殺を1日延期する事にして自室に戻った。

それから30分ほど後、疲れもあって4時過ぎに寝込んでしまった。

眼が覚めたのは先ほど、午後10時過ぎ。

自分のブログの最新の状態を見直していて問題を感じたので、この記事を書く事にした。
 

 
話は戻るけれど、………

自室に戻って最初にした事は、このブログの内容の変更。

私にとって、どういう記事でこのブログをしめくくるかは大問題だから………。

変更の内容はこの記事の削除。
 

あのままでは嘘になってしまう。………そう思った。

カッコのつけすぎ。見栄の張りすぎ。

本当の自分は、あんなに心優しいゆとりのある人間ではない事を今日の一件で思い知らされたからだ。
 

 
………今は3月3日(月)の午後11時23分。

とりあえず、ここまでをアップする事にしよう。

私の近未来

前回は人類の未来について語ったけれど、

私個人の超近未来としては、

以前の記事でもお話したように

………………………………………………………

★ 量子力学で見る「現実」 (動画) ★
量子力学
★ 多元宇宙の謎 (動画) ★
★ ビッグバン理論の限界を越える理論の誕生? (動画) ★
多元宇宙論

………………………………………………………

上記の動画や記事が指し示している現世を超えた未知の世界が存在する可能性に賭ける他はない、とカッコをつけながら考えている。

まあ、現実は惨めで悲惨で、これ以上はないほど愚かな最後ではあるのだけれど、………。
 

 

ともあれ、

現在の状況から脱出しようと様々な工夫をし尽くせば尽すほど凄まじい恐怖に襲われるのは何故なのだろう?
 

考えが深まるにつれて絶対に脱出を許さない真実が迫っている事を改めて思い知らされるから、………なのだと思う。
 

 
逆に

或る面で徹底的に愚かで世間知らずだった自分の行動に対する当然の結果としての

この厳しい現実を本心から受け入れる気持ちになれた時、

不思議なほど心が安らぐのは何故なのだろう?
 

今までの自分が絶対に理解できなかった現実社会の摂理を理解し納得する事ができたから、………なのかも知れない。
 

 

我ながら呆れてしまうのだが、

 

私という人間は

「物事を本当の意味で理解し納得する事、出来る事」

……その目的さえ叶えられれば、

他の事は「ま・いいか」で終わってしまう

ような「何とかバカ」の一面を持っていた事は

確かであるような気がする。

 
……こういう言い方も
この言葉に自分をこじつけた見栄に過ぎない

と言われてしまえば、それまでなんだけど、………。
 

 

 

さようなら、

多くの皆さんに御迷惑をおかけするに決まっている今後の行動については、本当に申し訳ないと思っています。
 

 

 

人間の未来

もう時間がない。

私に残されている時間は残り僅かだ。

このブログの扱い方を説明する為の、もう一つの説明は別として、今回が最後の意味ある記事になるかも知れない。

………今まで、長い時間をかけてお話しようと考え準備していた様々な事柄を一回の記事に詰め込もうというのだから当然の事として無理が生じる。
しかし、その無理を承知の上で表現を試みる他はない。
 

 
今回お伝えしたいテーマは「人間の未来」。

これまでに私が蓄積してきた動画や記事のリンクを使って言いたい事をお伝えできれば、……と思っている。
 

最終的には明るくまとめたい。

しかし、お話全体の構成上、明るい話題の前に多数の暗くて残虐な動画へのリンクを扱わなければならない。

暗くて残虐な動画へのリンクは一箇所に集めてあるので、その種の動画が苦手な人は、その箇所を避けて御覧願いたい。
 

 
本題に入ろう。
 

2~3日前から、死を前にして宗教関係の文章が読みたくなってインターネットを検索して様々な記事を読み漁っていた。

最初は心を動かされる場合もあるのだけれど、結局のところ私は宗教関係の人が言っている事には馴染めない。
 

人間を遥かに越えた存在 ( つまり神や仏 )を否定している訳ではない。

しかし、そういう存在に関する説明としては科学が語ってくれている事柄以上のものを宗教的な表現の中で実感する事が私にはできないのだ。

ただ、枕元にあったので昨夜ふと取り上げて読んでみた聖書の中のヨブ記には私の心に非常に語りかけてくるものを感じた。

何故なのか?

………上記リンク記事の一節を使って超簡単に言い切ってしまうと

『ヨブ記』では、神の創造の計画は人間の理解を超えているので、義人の苦難という問題は理解の外にあるものとして位置づけている。


わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。
 
………『ヨブ記』の、このような部分が私の心を打ったのだと思う。
 

 
………という事で

神の創造の計画は人間の理解を超えている……という点に関して私が選んだ吐き気を催すような残虐で凄惨極まりない動画のリンクを以下の部分に纏めて御紹介しておこう。

………………………………………………………

★ ベルゲン・ベルゼン強制収容所 (動画)★
★ ドレスデン・ベルリン 1945 (動画)★
★ 南京虐殺 (動画)★
★ 沖縄戦カラー映像 (動画)★
東京 1945
大阪 1945
★ アレッポ (動画)★
★ シリア難民 (動画)★

………………………………………………………

上記でリンクした動画の中で、通常では考えられないような苦難を強いられている人々が一体どれだけの罪を犯した、………というのだろう?

神の創造の計画は人間の理解を超えている

科学は上記でリンクした動画や記事なんか問題にならない
巨大な破壊を伴う「神の創造の計画」
について説明してくれている。

………………………………………………………

地球の歴史
★ 全球凍結 (動画)★
★ 地球最期の日 (動画)★

………………………………………………………
神のなさる事は人間の理解を遥かに超えているのだ。

 
今現在の人類が到達している「神に対する理解」の最先端の理解の一部分を分かりやすく説明している動画と記事を以下に御紹介しよう。

………………………………………………………

★ 量子力学で見る「現実」 (動画) ★
量子力学
★ 多元宇宙の謎 (動画) ★
★ ビッグバン理論の限界を越える理論の誕生? (動画) ★
多元宇宙論

生命 40億年はるかな旅

………………………………………………………

一方、

現在の人類が到達している一般的な工業技術の最先端は大体こんな程度だろうか?

★ 想像を絶する世界最大の船7隻 (動画 ★)
★ 世界のメガ工場 ボーイング747 (動画 ★)

………………………………………………………

近い将来の人類が到達する技術レベルは大体こんな程度なのだろうか?

発想が世界を変える!世界の未来プロジェクト8選
★ 西暦3000年までの未来予測が凄い (動画) ★
★ 未来学者が予想する100年後の世界 (動画) ★

………………………………………………………

★ 地球最期の日 (動画)★を明確に認識している人類は次のような計画を立てている。

………………………………………………………

そこを越えたら次の課題が待っている。

★ 火星改造計画 (動画 ★)
テラフォーミング

………………………………………………………

そこを更に越えた計画も、……その計画を更に更に越えた宇宙計画もあるけれど、或る一面に於いて、これからの人類が進むべき方向の一つの典型を今回ご紹介した動画や記事の中に私は見ている。
 



組曲「惑星」(ホルスト)より 第4曲 木星

ドビュッシー作曲★ 月の光 (動画) ★

 

 

ここまで人類の未来について語ったけれど、

最後に私個人の未来について付け加えて、このブログ全体の纏めとしておこう。
 

私個人の超近未来としては、

以前の記事でもお話したように

………………………………………………………

★ 量子力学で見る「現実」 (動画) ★
量子力学
★ 多元宇宙の謎 (動画) ★
★ ビッグバン理論の限界を越える理論の誕生? (動画) ★
多元宇宙論

………………………………………………………

上記の動画や記事が指し示している現世を超えた未知の世界が存在する可能性に賭ける他はない、とカッコをつけながら考えている。

まあ、現実は惨めで悲惨で、これ以上はないほど愚かな最後ではあるのだけれど、………。
 

 

それはともあれ、

現在の状況から脱出しようと様々な工夫をし尽くせば尽すほど凄まじい恐怖に襲われるのは何故なのだろう?
 

考えが深まるにつれて絶対に脱出を許さない真実が迫っている事を改めて思い知らされるから、………なのだと思う。
 

 
逆に

或る面で徹底的に愚かで世間知らずだった自分の行動に対する当然の結果としての

この厳しい現実を本心から受け入れる気持ちになれた時、

不思議なほど心が安らぐのは何故なのだろう?
 

今までの自分が絶対に理解できなかった現実社会の摂理を理解し納得する事ができたから、………なのかも知れない。
 

 

我ながら呆れてしまうのだが、

 

私という人間は

「物事を本当の意味で理解し納得する事、出来る事」

……その目的さえ叶えられれば、

他の事は「ま・いいか」で終わってしまう

ような「何とかバカ」の一面を持っていた事は

確かであるような気がする。

 
……こういう言い方も
この言葉に自分をこじつけた見栄に過ぎない

と言われてしまえば、それまでなんだけど、………。
 

 

 

いずれにせよ、

多くの皆さんに御迷惑をおかけするに決まっている今後の行動については、本当に申し訳ないと思っています。