千一夜物語? …… ③

手紙にしても論文にしてもブログにしても文章を書く為には、それなりの目標が必要になる。

どういう相手に何の目的で書くのか?

それがハッキリ決まっていないと、

あてどのない漂流のような手紙や論文やブログになってしまう。
 

このブログを始めた動機はこういう事だった、

………という件については既に前回の記事でお話した。
 

………その意味で、

このブログを始めた当初にイメージしていた読者に対しては

こういうブログを始めましたので御覧になって下さい、……という連絡をして

その上で、昨年末までの約7ヵ月間、記事を書き進めて来た訳なのだが、………

その間に、想定していた読者からコメントなどの直接的な反応はなかった。
 

しかし、ハッキリした否定的な反応もなく、

前回の記事でお話したコメントのような

奇妙な方法での奇妙な意思表示としての連絡だけが来たりする状態が続いていた。
 

そういう状態は
私が想定している読者を新しく設定しなおした昨年末以降も変化はなかった。

………………………………………………………

………以上、

ここまでの長い説明で私が言いたかったのは、

このブログを始めた当初に想定していた或る読者からの

奇妙な方法を使っての奇妙な意思表示は現在も続いている、

という事なのだが、………
 

前回の記事で私が行った「お願い」に対する、その読者からの反応は

明らかに「ノー」だと解釈せざるを得ないものだった、と私は感じている。
 

もちろん、残念だとは思うけれど、

人には色々と都合もあることだし、

何よりも最初から

このお願いが、どれだけ「皆さん」の常識の枠を越えたものなのかを
現在の私は深く深く認識し実感している。

のだから、

私としては、

示された「ノー」という意志表示は確かに了承しました、……と応えて

その了承の内容を、この記事の書き方にも反映させる以外にはない。
 

 
………というような次第で、

今日の、この記事は昨日とは全く異なった意図の下に

昨日に語りかけていた方とは異なった方々への語りかけ(お願い)………

として書く他はない。
 

お願いの趣旨は前回までと同じ

このお願いが、どれだけ「皆さん」の常識の枠を越えたものなのかを
現在の私は深く深く認識し実感している。

という私の心理も同じ。
 

前回と違っているのは以下の2点。

第一に、
前回の記事で大きく期待していた或る読者の方からは
明確に「ノー」の意志表示を受けた、………という現実状況。

第二に
もしも投資して頂けるのなら
その意志表示は明朝までに行って頂かなければ
間に合わない、………という現実状況。

 

 

…………………………再び……………………………

………以上、

辛いことだけれど

このブログは今回の記事を最後として終了せざるを得ない可能性が高い、………

と現在の私は考えている。
 

それに伴って

このブログが存続できるかどうか?

………という問題も生じてくる訳だけれど、

………それは、このブログが持っている生命力次第だと思う。
 

前回の記事でお話したように

このブログは幾つもの社会的な問題点を抱えている。

しかし、

それを補って余りある可能性を持った社会的な提案を試みようとしてきたブログでもある。

………と私自身は考えている。
 

それ故に

この問題については

前回の記事でもお話したように

このブログの中で
私は私なりの考え方を主張できる限り主張して来た。

………その主張に対する判断や判定は
このブログの存続を含めて
現在の読者の方々および一般社会の人々
あるいは国家権力にお任せする。

これ以外にはないはずだ。

………と申し上げる他はない。
 

 

…………………………三度目に……………………………

………以上、

ここまで今日の記事を書き終えて思う。
 

私は今までに何度も死にそこなってきた。

死を覚悟していながら最後の決断を下すことができずに死から逃げ帰ってきた。

………しかし、

死から逃げ帰ってきた事によって初めて分かった重要な事柄も多い。
 

 
個人にとって死への決断は

核を保有する大国がミサイルの発射ボタンを押す事に等しい。

発射ボタンを押す事、それ自体は単純で簡単な作業だ。

しかし、

一度それを押したら世界の全てが滅び去るかもしれない。
 

核ミサイルの発射ボタンを押すべき時を

最終的に、しかも冷静に判断する事ができる個人の凄さを思う。

和平交渉をはじめとして、

それを避ける為に必要な手段を可能な限り取り尽くして

それでもなお、発射ボタンを押すべき時………があるのだろうか?
 

 
以上のような核大国の例は別として、

大石内蔵助や西郷隆盛など、

昔の人々の生き方や死に方を考える時、

個人には、それと同じ種類の最終的な決断を下すべき時や瞬間が

確かに存在するような気がする。
 

彼等のような偉人と比べるのはどうかとも思うのだが、………
 
何度も何度も死ぬべきだと信じていた時に死に切れずに逃げ帰ってきた私は

単なる臆病者だったのだろうか?

それとも思慮深い利口者だったのだろうか?
 

少なくとも

過去何回かの「死ぬべきだと信じた時」の私の判断や心理は甘っちょろいものに過ぎなかった

………とだけは断言できる。

………その意味で今回の自分の判断はどうなのだろう?
 

 
改めて

冷静な心の状態を保ったまま価値ある死に赴いた人々の凄さ偉大さを思う。
 

 

………background music………

★ 交響組曲「シェヘラザード」(動画) ★
演奏 …… クラウス・ペーター・フロールが指揮するロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団

交響組曲「シェヘラザード」についての解説記事

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。