実験的行為と常識 ……序文

 

今は4月9日の午後8時。

前回の記事を6日の午後10時にアップした後、7日(金)の午後10時過ぎまで、

深刻な不安感を抱えたまま

丸1日間パソコンに触れずに寝込んで様々な事を考え続けていた。

結果を見るのが怖かったのだ。
 

その後、意を決してパソコンを立ち上げて6日の提案に対する皆さんの反応を見た。

予想通りの「ノー」という結果。
 

………死を覚悟して最終的な決意が定まるのを寝床の中で待った。

覚悟が定まったら何も考えずに2階に直行し行為に及ぶつもりだった。
 

 
………しかし、どうしても覚悟が定まらずに8日(土)の朝を迎えた。

借金取りの訪問とか、電話とか、……

最終的な行動への肩押しになる事件が生じてくれたら、………

等という期待を胸に、その時が訪れるのを待ち続けた。
 

幾つかの事件が生じたのだが、決定的な迫力に欠けている。

………そんな気持ちで頑張っている内に、いつしか眠り込んでしまった。
 

 

 
眠りは死の覚悟の強敵だ。

死を覚悟したら、その緊張を保ったまま最終的な行動にまで突っ走らなければならない。

その事は経験上、分かっているのに、緊張が持続しなかった。

 
案の定、

8日(土)の夜半に目覚めた時には建設的な気分になってしまって死への実感がなくなっている。

理屈の上では死ななければならない事は分かっているのに、………
 

それ以降、

死にたくない自分と死なねばならない事を語りかける自分との問答が

今に到るまで丸1日間続いている。
 

幸か不幸か、今日9日(日)は朝から夕方まで

決定的な決断を迫る借金取りの訪問とか電話といったものは無く過ぎたので

今から朝までは記事を書く時間がとれるなあ、………

そんな気持ちでパソコンの画面に向っている。
 

 
記事を書こうという気になったのは、

上述の問答を続けているうちに

それなりに書き残しておくべき意味のある思考が纏まってきたからだ。
 

今の私にとって最も大切な事は、このブログをどう纏めるか、だ。
 

どうしても自分が死ななければならないのなら

このブログをそれなりに存在価値のあるものとして遺してやりたい。
 

逆に、

考えて考えぬいた結論として、

どう好意的に解釈しても

このブログが残しておくべき価値も意味もない下らない恥ずべきものでしかないのなら

場合によっては、

このブログ全体を自分の手で削除してから死ぬべきなのかもしれない。
 

 
 
死にたくない自分と、死なねばならない事を語りかける自分との問答は延々と続いている。

………その流れの中で、
時としては前者が、……別の時には後者が優位を占めた。
 

そして今、

私自身の心の中では前者、

つまり、このブログは遺すべき意味と価値のあるものだ、………

という実感と、それに伴う考え方が優位を占めている。
 

………という事で、

以下からは、最終的に前者の方向へ向う問答の流れを記事として書き記すことにする。

前者、

つまり、

最終的に、このブログを肯定する、という感じ方、考え方である以上、

結論としては

「創造ネット計画」への肯定

「創造ネット計画」に対する投資の必然性

………というところへまで話が及ぶかもしれないけれど、………
 

現在も私の心の中で延々と続いている問答の流れと同様に

それは話の結果としてそうなっただけの事であり

そういう結論を求めて、この記事を私が書き進めるつもりではない事だけは

皆さんに前もって断言しておきたい。
 

………………………………………………………

………以上、

すっかり前置きが長くなってしまったので、

ここまでを序文としてアップし、一休みしてから本文に向おうと思う。
 

 

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