今週一杯、可能な限りの努力をしてみたのだが、………
事態は一回りして去年の12月10日のこの状態に戻ってきた。
心理状態も当時と同じ………
いや、
約1ヵ月の試行錯誤の結果として自分の「詰み」は避けられない事実だという事がハッキリした分、気持ちが強まっている。
死に対する恐怖感はないし
やれるだけの事はやり尽くした、と言い切るだけの自信があるから
むしろスッキリとした清々しい気分でさえある。
母の死を覚悟した時の事を思い出す。
母の苦しみを見ている事に耐え切れずに担当の先生に電話した時、彼から受けた説得を、………。
ここで母を入院させたら、それまでの私の努力は全て無に帰する、………と彼は力説した。
当時の様々な事情から母を入院させる事は病院としても迷惑以外の何物でもない、………という理由もあったのだろうけれど、………
現代日本の医療制度の枠の中で、異端ともいえる母に対する私の介護方針に可能な限り協力してくれた彼の言葉は、やはり心に沁みた。
圧倒的多数の人々の多様な死と接してきた人の言葉には逆らい得ない重みがあった。
ところで、
今回の状況に於いて自分を説得したのはコンステレーションだったのだ、と今の私は考えている。
仕事探しの毎日の中で私は出会った全ての「コンステレーション」を見誤っていた。
出会った全ての「コンステレーション」との勝負に私は敗北した。
73歳の老人がパート労働先を求める、という事に対する世間一般の常識的感覚を覆すだけの説得力を私が持っていなかった、………とも言える。
今の私には、出会った全ての「コンステレーション」が敗者としての自分に死ぬ事を命じている、という実感がある。
これ以上、見苦しく生きる為だけの行動を続けたら、今までの私の努力は全て無に帰する。
見苦しい行動をせずに、しっかりと運命を受け入れて正しく死ぬべし、………という心の底から湧き上がってくる強く深く冷静な意志を感ずる。
私は世界や日本の近未来に対する或る種の思考や直感を持っていて、その思考や直感の可能性を信じている。
それを信じ育てる事のできる人間は私以外にいるはずはないとも考えている。
私は自分の内にある思考と直感と、それに伴って生ずる計画→「創造ネット計画」の唯一無二の理解者なのだ。
しかし、………
確かに私は「創造ネット計画」の可能性を信じてはいる。
その私が私という人間の現実適応能力を信じることができなくなっている。
「創造ネット計画」を現実社会の中で育てていく力は自分にはない、………と判断し始めている。
自分の愚かさ醜さ力不足を正面から見つめ受け入れて正しく死ぬべし、………と。
もしも、ここまでこのブログを読んでいらっしゃる人がいたとして、
その人に対して今の私に出来ることは
正しく、そして可能な限り美しく死んでみせる事しかないと思う。
母を看取った時に私が理解した意味での神がイエスを通じて人間に示した真実と比べるのは余りにも傲慢な例えだけれど、………
私という人間の心の真実、
つまり、
このブログの全ての記事の底に流れている
私という人間の心の真実、
を示す為に今の私に出来る唯一の方法は自分の命を生贄として差し出す事。
それ以外にはない、………と考えている。
日本には武士が自分の心の真実について証を立てる手段としてとして切腹という古来から伝わる方法がある。
私は三島由紀夫ではないので流石に割腹までするつもりはないけれど、………。
御家再興に向けて全ての努力を尽した後、切腹によって従容として死に赴いた大石内蔵助の美学に心酔している面はある。
………という事で、………今後の私が取り得る行動は
前回の記事に書いた
「具体的に身辺の整理を初めとして遺書の内容や死出の旅路のルートの確認から必要経費の算出と確保、出発日時の想定……等々、死に到るまでの詳細かつ周到なプログラム」を完全に仕上げた後
それを粛々と実行していくこと以外にはありえない。
このブログについては、
こういう記事を書く事に問題を感じない訳ではないのだけれど、やはり今までの行きがかり上、ここまでは書いておくべきだと判断した。
この後の処理および成り行きは先ほどの記事に書いた通り。
「詰んだ」という判断が下された場合は、
これ以上ブログ更新はせずに1~2週間後に全ての記事を削除する。
サイトはサーバーとの契約が切れる来年の6月4日まで記事なしの状態で残って、その後はサイト自体がネット上から消えていく事になる。
「souzou.net」という貴重なドメインも来年の6月4日に契約が切れる。