今日は自分の現実的な努力に対する懐疑的・否定的な暗い話を敢えてしてみたい。
生きる事に対する私の最も基本的な判断と対応は「御心のままに」だ。何が何でも生きなければ、………という気持ちは持っていない。
これが今回の話の大前提だ
………ところで、
今の私はギリギリの状態下に於いてFXの実力を身に付けようとしている。この試みが失敗に終われば様々な意味で私の人生に先はない事は明らかだ。
逆に、もしも成功すれば幾つもの実現可能な展望が開けてくるはずだ。
前回の記事でお話したように、これからの世界は大変動の時期に入って行く他はないと私は考えている。
そういう変化変動の時期には特にFXを初めとした投機・投資の知識と技術を身に付けている者ほど強い個人はいない。………あくまでも個人レベルでの経済的優位性に限定しての話だけれど。
だから私はFXに今後の全てを賭けた。
いや、……直接的にはFX以外に私に残された稼ぎ方がなかったという理由の方が大きいのだが、………
その「FX以外に自分に残された道がない」……という事それ自体に何等かの必然性(つまり自分の運命のようなもの)を感じていたりする。
いずれにせよ、
私の現実生活の今後は全てFXの実力を身に付ける事が出来るか否かにかかっている。
目の前の直接的かつ絶対的な課題は「FXで10万円稼ぐ事」が出来るかどうか。
クリスマス休暇に入る年末の相場の動きを考えると資金的な面から私に与えられている最終的な猶予期間は残すところ20日程度だと思う。
………なのに、今現在までの私はデモ取引のチャートを眺めているだけだ。来週からこそは本番に入らなくては、とは考えているのだが、………。
そういう自分の心の動きに対して今の私は何の感情も持ってはいない。特段の恐怖も希望も感じずに淡々と日常生活を送っている。
まるでサイコパスのように………少なくとも意識の表面に於いては。
御立派とは言いかねるけれどFXに関しても「自分がやれるだけの事はやったしやっている」………と思っている。
それに、
生きる事に対する私の最も基本的な判断と対応は「御心のままに」だ。
その「御心」が「今日もこのブログに集中すべきだ」………こうおっしゃっている。
今の私が「何が何でもFXの実力を身に付ける為に死に物狂いで頑張ろう」………という気持ちになれないのは当たり前の事なのかもしれない。
母の介護という或る意味で絶対的な目的を失った、………というか他者に対する絶対的な責任から解放された現在の私は何時死んだって構わないお気楽な身分なのだ。
若い頃に様々な宗教をハシゴした結果として得た「悟り」を私は持っている。………言葉の根本的な意味において私は「死」を恐れる理由など持ち得ない人間のはずなのだ。
生きる為だけに世間的な常識に従って生きる必要なんか完全に無視しても構わない人間のはずなのだ。
現世での生活を維持するつもりなら「FXの実力を身に付ける事」が自分にとって絶対的かつ喫緊の課題である事は承知している。いやというほどまでに。
それにも関わらずFXを放り出して現在の私が今後の世界の動きについて考え続けているのは、「御心」がそうせよとおっしゃっているから…というだけの事だ。他に理由や目的なんかない。
25歳頃、躁うつ病との出会いによって、私は自分の意識や意志的な努力では抑えようのない自分の心身の底の底から生じてくる感情や情動や願いや意欲や気力というものが存在する事を思い知らされた。
それ以降の私は、その時その時に心身の奥底から湧き出してくる感情や情動や願いや着想を何よりも優先して生きてきた。
目の前の現実生活などはどうでもよかった。
そういう私の生活を父と母は黙って許し見護ってくれた。当時の金額で200万円以上の株を勝手に売り払ってしまった時でさえも。
「自分の意識や意志的な努力では抑えようのない自分の心身の底の底から生じてくる感情や情動や願いや意欲や気力」
つまり「御心」こそが目の前の現実に対する私の思考や判断の原点であり出発点だ。その意味では一般的な常識なんか糞食らえ、というのが私の本音中の本音なのだ。
生きる為、目の前の生活を護るためだけに他の大切な何物かを捨て去る現実的で常識的な生活に一体どんな意味があるというのだ!
繰り返しになるけれど、
生きる事に対する私の最も基本的な判断と対応は「御心のままに」だ。
何が何でも生きなければ、………という気持ちは持っていない。
けれども、もしも非常に近い将来(たぶん来週の中ごろまで)に私の心身の底からFX取引に対する猛烈な興味と意欲が湧いてくるようなら、………それもまた「御心」なのだと思っている。………その逆の場合も。
介護にQuality of Lifeという概念がある。
その意味において、胃瘻で食べることも出来ず身動きはおろか最後の1年間はしゃべることさえ出来なかった母に私が出来ることは母が喜ぶテレビ番組や映画を一緒に見る事だけだった。その事それ自体が当時の私の何よりの楽しみでもあった。
もしも「生まれ変わり」が本当にあるものなのなら、その準備を母にさせてやりたい、というのが当時の私の至高の願いであり目標だった。
そういう意図に基づいて2年以上に渡って300本~500本以上のDVDやブルーレイを母と一緒に見続けていた。その中に表現されている様々な人生、生き方、恋愛、死、………を母と二人で見詰めながら疑似体験し続けていた。それが当時の私の生活の実態だった。
そういう生活の中で、そういう喜びを求める事が当時の私に与えられた「御心」だった。
しかし、今になって振り返る時、やはり母は私の為に必死で生きていてくれたのだ、という事実が見えてくる。見果てぬ夢を追い続けている息子の可能性を無条件に信じて。経済的に無能な息子の唯一人のパトロンとして。耐え難い病苦に耐え抜いて。
昨年の3月に母を看取ってから1年と9ヶ月になる。
それ以前の母との生活を含めた最近の10余年間に私が学び得た物事は自分自身の「生まれ変わり」にとっても十分以上のものだったと感じている。
その間も今も今後も私にとって最も重要な生きる目的は何らかの意味での「生まれ変わり」であるに違いない。
けれども、………万一それ以外に「生きる意味」があるとしたら、………
………これも繰り返しになるけれど、
もしも非常に近い将来(たぶん来週の中ごろまで)に私の心身の底からFX取引に対する猛烈な興味と意欲が湧いてくるようなら、………それもまた「御心」なのだと思っている。………その逆の場合も。
もちろん………「頑張った」結果として成功するしないも「御心のままに」………だ。やりたいからやる。面白いからやる。………それだけの事だ。
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ここで再び最初の大前提に戻る。
生きる事に対する私の最も基本的な判断と対応は「御心のままに」だ。何が何でも生きなければ、………という気持ちは持っていない。
私の心身の底の底に生じる「御心」がいつも正しいとは限らない。
いや、それどころか今までの体験から考えても、普通の常識から考えて間違っている、という範囲を越えたサイコパスレベルの邪心が心の全体を占める時もしばしばだった。
その場合でも私は常に「御心」に従って来た。行為の結果として警察に捕まる(犯罪になる)ような事が予想されなければ敢えて「御心」のままに行動してきた。但し大部分は心の中、イメージの上で、非常に具体的かつ精細なシミュレーションとして。
一般的な意味での勤勉とか実直とも縁遠い生活形態だった。(そもそも自分で稼いだ訳でもない金を資金としてFXをやろう等と本気で考えている事、それ自体が異常と言えば異常なのだし………)
………………………………………………………というような次第で、
現在の私の目の前に展開している逃げようのない現実は全て私自身が承知の上で招き寄せた当然の結果なのだ。
「御心」のままに生きて来た、「御心」に賭けた自分の人生に悔いはない。
………こんな事を言うのは早過ぎるかもしれないけれど、これが現在の私の心境だ。
………………………………………………………
…………以上、
ここまで、この文章を読んで下さった方がいたとしたら、誠に申し訳ないとは思うのだけれど、いつか一度は言わなければならないと以前から考えていた事なので、………と言い訳させて頂きたい。
最後に、この根暗な本音を敢えて明かす覚悟を私に固めさせてくれた猛烈に暗くて深いところから人間が生きる意味を考えさせてくれ、読者に自分は幸せ者だったんだと気付かせてくれる凄い告白ブログ←サイコパスの母親に育てられた人が自身の体験を綴ったブログだったのだけれど既に削除されている(2018年6月)と
このブログが無自覚的かつ暗示的に鋭く指摘している「サイコパスと資本主義の親和性」に関する以下の情報を紹介して今回の記事を終わりたいと思う。
資本主義とサイコパスとの関係
………
サイコパスとしての資本家
………
サイコパス上司の部下だったときの仕事の記憶と記録
………
トランプ旋風を生んだ低俗リアリティ番組「アプレンティス」について
………
アプレンティス(wikipedia)
………
★ The Apprentice(動画) ★