「ペール・ギュント」第1組曲(グリーグ)
チャンネル案内文のグーグル翻訳
………
出発点としての
子供の絵のような論文
2019年11月25日
………
目次
………
1994年2月に書いた論文の思い出
………
論文の目次
1994年2月に書いた論文の思い出
………
個人の未来なんてどうなるものか
先は分からないものだ。
今から25年以上前、1994年の2月、
私はこういう論文を書いていた。
文芸春秋社の「地球新時代の日本」という
懸賞論文企画への応募が目的で、
結果は第一次選考にも残れない惨敗だった
のだけれど、………
ここに書いてある考え方が遠因となって、
それから23年後の2017年の5月7日に
こうなる定めが待っている事………
なんか
当時の私に予想できる訳はなかった。
………ともあれ、
最初に御紹介した論文で述べられている
考え方が
その後の私の人生の方向を大きく決定した
事は間違いない。
そして
この論文に述べられている考え方は
25年後の運命など知る由もなかった
それ以前の50年以上に渡る私の人生から
導き出されるべくして導き出された
必然の産物だ、………という事も
また確かな事実なのだ。
この論文に対する様々な感想を
全体的にまとめるなら、……
………………まるで
「未来の世界を描いた子供の絵」
のような作文だなあ………
………
……という一言に尽きるのだけれど、……
この考え方が今後の自身の将来を
深い部分から決定する事は
私にとって
一つの確実な事実に違いない………
ちなみに、
この論文を書いた1994年はこんな感じ
の年で
こんな出来事があった年でもあった。
翌1995年(平成7年)には
あの阪神淡路大震災が起こっている。
………
当時のパソコンはこういう状態で、
ウインドウズ以前の
DOS/VやNECのPCシリーズが主流だった。
インターネットはまだなくて
電話回線を使ったパソコン通信が全盛。
文芸春秋社に応募した論文は
NECのワープロ「文豪」で打ち込み
原稿用紙にプリントアウトして郵送した
事を覚えている。
………
………そんな時代状況の中で、
自分の夢や希望や信念を一生懸命に綴った
のがこの文章だった。
あれから25年が経過した今、
(無知だからこそ思い描くことができた)
実現可能性なんか完全無視の
………
子供の絵に描かれたような
当時の夢や理想や希望や信念に
………
どれだけの現実性を
与える事ができるか?
それが、これからの私の努力目標になる、
と考えている。
…………………………………………………
………というような次第で
読みにくかった元の記事を
読みやすい形に再編集してみた。
………
1994年2月に書いた論文
「創造する民衆の時代」
目次
………
………
1 私自身の体験からの提言
………
2 創造に無関心な人々
………
3 民衆を呪縛する通念……4 生命と創造
………
5 個人の中の民衆……6 迫りつつある未来
………
7 新しい社会へ向けて
………
8 結語
「専門家」と「民衆」が築く未来
………
1 私自身の体験からの提言
………
ソ連の崩壊の頃を境として
世界の政治経済の構造が根本的なところ
から大きく変化した
現在はメガ・コンペティションの時代
なのだという。
この世界状況は
一般的な日本人の日常生活にも
大きな変革を要求せずにはいない。
外側からの巨大な力が加わって、
過去の価値観や生活意識の変更を
否応無しに強制される歴史の過渡期に
現在の私達は居るのだ。
このような時期に当たり、
過去15年以上に渡って積み重ねられて来た
自身の特殊な体験と
それに伴う特殊な知識や技術の可能性を
私は強く感じている。
過去51年の人生は
それらの背景として重要な意味を持つ。
それ故に、
困難ではあっても
混沌とした両者の関係を表現しない
訳にはいかない。
それは、
この文章の全体を建設的な提言とする為に
どうしても通り抜けねばならない関門
なのだ。
私は昭和18年生まれ。
43年に京都市立美術大学(現京都芸大)
工芸科を卒業。
同年某大手スーパーの前身となる企業に
店舗設計開発を志して入社。
約9ヵ月後に適応障害を引き起こし
会社に迷惑をかけ止むなく退職。
以降の10年程の間は、
様々な職場を転々としたり
各種の宗教団体に首を突っ込んでは
喧嘩して飛び出したりという生活が続く。
そうした状況の中で
人間としての自身の心の裏側にある何かに
ついて思い知らされ
現実社会や宗教について考えさせられ、
最終的にはユングの思想に救いを予感する。
34才。
当時の新聞に紹介のあった「心の電話」
によって
名古屋大学・教育学部の心理相談室を知り
揺籃期を終えて実験段階に入っていた
臨床カウンセリングを受ける事になる。
約2年後に、
臨床カウンセリングに対する
「創造性開発カウンセリング」を主張
し始める。
それ以降の14年間は、
その主張を巡ってのカウンセラー氏
と私の「死闘」が続く。
しかし
最近になって両者の間に弁証法的な解が
得られるかも知れないという予感を抱く
以上、
「創造性開発カウンセリング」という
私の構想の来歴と現状の概略を記した。
この構想の根幹の部分にある
「創造に対する民衆の潜在的な能力」
という考え方の当否を世に問おう
というのが本稿の目的だ。
題して「創造する民衆の時代」。
暫らくはこの提案の2つのキーワードである
「創造」と「民衆」を巡る
現代の社会状況を考えてみたい。
2 創造に無関心な人々
………
全ての職業には
労働の側面と創造の側面がある。
しかし現在の社会常識では、
一般に「創造」は限られた立場の人々のみ
に専有されるのが当然とされている。
デザイナーや画家・作曲家・小説家・
建築家・諸科学研究者・
それに政治や経済に関わる新しい法制度の
作成担当者の人々、
等が代表的な例として考えられる。
それらの人々はエリートだ。
すなわち様々な分野に於いて激しい競争を
勝抜いて「創造者」として認められた
文字通り選ばれた人々なのだ。
それらの極く限られた一部の人々だけが
「創造」を職業として生きる事を許される。
又、「創造」の重苦を一身に背負わされる。
残された人々はどうするか?
野に下り、雌伏して
創造の場を獲得すべき時を伺う人々もいる
だろう。
革新的な作品や企画や計画や政策を
胸に秘めて来るべき時が来るのを待っている
人々もいるだろう。
しかし、
それらの人々は隠れたエリートであり、
本稿のテーマの対象ではない。
そうではなくて
自分が「創造」と関わろう等とは
露ほども思わずに
「創造者」の提供する物やサービスを
享受するだけの立場に撤している人々を
こそ今私は問題にしたいのだ。
彼等を「民衆」と呼びたい。
彼等は今大きく変化しつつあるように
私には感じられる。
彼等即ち「民衆」の現状に
意識的あるいは無意識的な大きな変化が
伺える。
そのような変化を促進し、
その結果をフルに活用する事によって
拓かれるはずの新しい社会について
考えたい。
3 民衆を呪縛する通念
………
先程も述べたように、
創造とは
芸術・科学等々あらゆる分野に於いて
各種の才能と機会に恵まれた特殊な人々に
のみ許され
求められている特殊な営みだというのが
現在の一般的な社会通念だ。
しかし私は、
このような現在の社会通念は
今後大きく変化して、
そこから新しい社会通念が生まれてくるに
違いないと考えている。
そうでなくてはならないと考えている。
これは今後の話の運びにとっても重要な
ポイントなので
以下に
そのような考え方の流れを次の
3段に分けて表してみたい。
1、前述の社会通念は人間の心の本性に
反したものだ。
創造という営為は
本来あらゆる人々に帰属すべき
当然の権利であり義務だ。
2、そのような前時代的な社会通念の存在
こそが、
現在の先進諸国が抱えている全ての困難の
根底に横たわる本質的な問題である。
3、逆に言うなら、
先進諸国がそのような本質的な問題に
応える事ができれば、
諸国が現在抱えている困難の全ては
おのずから解決の糸口を見出だす事が
出来るはずだ。
世界の歴史の大きな流れから言って
一般民衆の仕事あるいは職業の本質は
次々と高度なものへと変化し続けている。
新しい時代が訪れる度に
高度で高付加価値で高収入の新しい職業が
提示され、
それによって一般民衆の活力は
常にリフレッシュされ続けて来た。
フォードが革新的な生産システムと
給与体系を民衆に提示した事による
米国社会の変化はそのような
歴史の流れの典型だと言える。
そうした事実に鑑みれば
現代の「労働」を主体とした民衆の職業形態は
未来社会に於いて「創造」を主体としたもの
となるのが自然であり必然だ。
そのような「労働主体」から「創造主体」への
職業形態の変化こそ
現在の先進諸国の諸問題の本質的な解決の
王道だと言われて久しい。
然るに現在までの日本および
世界の先進諸国の現状はどうか?
そのような疑問に対しての私の答えが、
ここに示した
「創造」に関わる現在の一般通念への挑戦
だという事になる。
現在の「民衆」は、
そのような通念に呪縛されている
「隠された創造者」なのだと私は考えている。
その考え方の
最も根源的な根拠は私自身の或る実感だ。
次節ではそれについて述べたい。
4 生命と創造
………
「創造とは、
過去に存在しなかった
新しい価値を創り出さずにはいられない
生命の営みである」
・・・神という存在に関わる議論を
抜きにした場合、
これが最も根源的な創造の定義
なのではないだろうか?
………
ともあれ
創造という言葉によって
直ちに私が思い浮べるのは
干上がった水溜まりで、
もがき苦しんでいる魚の姿だ。
やがて彼は陸に上がる。
3億年を遥かに遡る昔に於ける
「地球新時代」の旗手の姿だ。
彼の姿に私自身の現実を重ねる。
………
運命が何故に私を水の外に飛び出させた
のかは分からない。
しかし最初の企業を出た後の私の生活は
「民衆」である自分を自覚し、
その事を拒否し続けている「民衆」の生活
そのものだった。
水の中に戻りさえすれば楽に生きられる。
しかし水の中での生活に戻るかどうかの
迷いの中で、
私は常に「進化」への道を選んだ。
何度か出会った池や川や大海を
常に拒否し続けた。
その度に新たに死を意識し直し
死への覚悟を定めつつ生きていた。
そのような生活は今も続いている。
………
この文章は、
そうした「陸地」への個人的な挑戦の
一つの手段でもあり経過報告書でもある
のだが、
既に述べた挑戦の体験の中で、
私は次のような深い実感を抱くようになった。
即ち生命が「進化」の結果として
人類を生み出さねばならない理由に対する
「悟り」のような実感だ。
勿論、
ここはその「悟り」の 内容を語るべき場
ではない。
しかし、
現代人なら誰もが宇宙から送られてくる
地球の映像を見た事があるはずだ。
暗黒の空間に浮かんでいる青く輝く球体を
眺めながら
「自分達は皆この星の上に生きているのだ」
という感慨を抱いた経験があるはずだ。
私の個人的な「悟り」の実感も、
そのような感慨の一つであるという事だけは
確かに言える。
前節に於ける断定、
即ち
「創造という営為は
本来あらゆる人々に帰属すべき当然の権利
であり義務だ」
という感じ方や考え方は、
その感慨を根拠としている。
人は皆、
太古の昔から現在に到るまでの
全ての生命の一員として、というより旗手
として
「進化」への抜き去り難い崇高な衝動を
持っていると私は思う。
それは直ちに人間に於ける
「創造」の権利と義務への実感に通ずる。
この実感は
創造する民衆の時代を予感する私にとって
最も根本的な立脚点だ。
次節では
この根源的な実感の上に立って
今現在の日本社会に於いて
個人が抱えている或る問題について
考えたい。
5 個人の中の民衆
………
ここまでの表現の中で
「敢えて」行っていた事がある。
あたかも全ての人々を「創造者」と「民衆」
という2つの群れに
明確に区分けするような表現がそれだ。
言う迄もなくこれは「民衆」と「創造者」
という2つの対立する「生活姿勢」を
相互に浮かび上がらせる為の方便だ。
勿論、
個人には「創造者」と「民衆」という
2つの側面がある。
現代社会では殆どの人が
自分の職場での「創造」を厳しく要求
されてさえいる。
その同じ人が
自分の職業分野から離れた事柄に関しては
「民衆」そのものなのだ。
この節では、そのような、
個人に於ける「民衆」と「創造者」との関係
についての考察を進めたい。
個人の中での「民衆」と「創造者」との区別が
近年は非常に曖昧になり始めている。
画家である池田満寿夫氏が
芥川賞を受賞した時、
当時の世間は驚きの声を上げた。
画家は文学の領域でも「民衆」ではなく
「創造者」であり得るという
今になって考えてみれば極めて当然の事に
驚いたのだ。
今時は、それに類した事は日常茶飯事だ。
専門家の領域が相互に侵犯されつつある
と言える。
それによって様々な専門領域が活性化された。
このような傾向は
今後も進展する事はあっても後退する事は
ないだろう。
私が実感するのは、
そのような意味での「民衆」の変化だ。
過去に於いて
一部の専門家の権利であり義務であった
「創造」が
部外者である「民衆」にも
仕事として開放され負荷されつつある。
勿論、
現在までのところでは極く一部の
非常に有能なエネルギーの有り余った
特別の「民衆」が
「自発的」に手近な陸地への上陸を開始
しているという趣がある。
今尚
それを特別な人の特別の行為なのだ
としか感じず考えない人々が殆ど
なのかもしれない。
しかし私の考えでは、
そうした旧来の一般的社会通念に呪縛
されている人々こそ
真の意味での「民衆」そのものに他ならない。
そのような人々は
今のまま自分の池の中で水が干上がるまで
泳ぎ回っていれば良いのだと私は言いたい。
………
彼等は今現在の日本および世界を襲いつつ
あるメガコンペティションという
極めて苛酷な試練の時代に必然的に伴う
環境変化には耐え得ないだろう。
それは個人の中の「民衆」を「創造者」へと
「進化」させ続ける事を
絶えず要求して止まないものだからだ。
………
そこでは
一つの池の中での新しい泳ぎ方の「創造」
等というレベルの
古くて低い創造は通用しない。
次節では
そうした新しい日本社会の構造について
考えたい。
6 迫りつつある未来
………
現在の日本という国は正しく賢く稼ぐ力は
持っている。
しかし、その巨大な力に見合うだけの
正しく賢く消費する力を持っていない。
生来の真面目で几帳面な性格に適合する
新しい夢や理想に
未だ出会っていないからだと私は思う。
様々な議論の末に列島改造計画は国民から
拒否された。
蓄積され続けた貿易黒字は
主としてアメリカの夢と理想のお付き合い
に使われている。
そうこうしている内に
世界情勢は変化するし国民の平均年令も
高齢化の一途を辿る。
働き蜂国家は稼ぎの巨大さ故に
他国から注目され重要視されている。
しかし歳を取って稼ぐ体力が衰えたら
どうするか?
何を以て他国に伍して行こうというのか?
もし日本が
現在の厳しい世界状況を逆手に取って、
むしろそれをチャンスとして生かして
新しい経済発展を遂げようとするのなら
今後の日本社会に於いて
構成員に要求される「創造」は
現在とは次元の異なるものになる他
はない。
だからこそ現在の社会の限界を突き抜ける
新たなる高度成長が可能になるのだ。
その社会に属する個人に高度な収入を
約束する事が出来るのだ。
しかし、その場合に
近未来の日本社会の果たす高度成長は
企業戦士を鼓舞し突撃を繰り返していた
最近までの日本のそれとは異なる原理に
基づくものになるに違いない。
それに呼応して
個人の生活の在り方も「創造」も
過去とは次元の異なるものになるのも
又当然だろう。
そうした国家や社会や組織の在り方と、
それに対応すべき個人の在り方に関する
私見を極く手短に述べたい。
どう考えても
他に適切な表現方法が思い浮かばないので
次のような私自身の体験に即して敢えて
本当に敢えて語ってみよう。
今回の応募に際して私は集中して
6万円以上の経済関係の雑誌と書籍を
買い集め読み耽った。
同様の人々が全国に多数いるのでは
ないだろうか?
これは一つの経済効果だ。
この企画がなければ生まれなかった
消費なのだ。
一方
これは私自身にとっては6万円の投資だ。
万一入選すれば幾許かの稼ぎになる。
確かに当初の考えはそうだった。
けれども今はそんな事はどうでも良い。
今回の読書と著述への試み
それ自体が私にもたらした効果は
自分にとって既に莫大なものになっている
という感じがあるからだ。
自分自身の今後の資産運営に対する
大きな筋道を見出だしたからだ。
以上、要するに私がイメージしているのは
この企画の精神を更に発達させ
施行技術を強化し洗練させた
大規模な国家運営なり組織運営の在り方だ。
最近になって急激な成長を見せている
マルチメディアを駆使すれば
可能な手段は幾らでも考えられる。
私自身の個人的な体験から推量すれば、
それによって得られる消費力は莫大なもの
であるはずだ。
しかもそれは
明らかに健全で建設的な消費なのだ。
そのような未来の社会の在り方を
私は求めている。
しかし、それを実現して行くには
幾つかの関門を通り抜けなければならない
だろう。
その点について次節で考えてみたい。
7 新しい社会へ向けて
………
現在の日本では
将来の在るべき社会構造の設計図を巡って
「創造者」を自認する専門家と
そこから阻害されている「一般民衆」との
冷え冷えした関わりが定着しかかっている
ように感じられてならない。
いわゆる規制緩和の問題をクリアーする事が
将来の日本を築いていく上で
如何に厄介な関門であるかを痛感させられ
ている。
この問題に関係する全ての専門家が
「創造者」として
様々な設計図を描いてみせているのに
結局は受け手としての私自身を含めた
「民衆」を今だに説得しきれていないのは
何故なのかと私は訝しく思う。
それはあたかも適齢期を迎えた女性の
複雑微妙な心を理解できずに
闇雲に言い寄っては撥ねつけられている
ヤボな男達の群れを見るような感じだ。
この例えに即して述べるなら
問題の本質は次の点にあると言えるだろう。
………
即ち、
それぞれの男達が建前は別として
本音では「俺を信じて黙って付いてこい」
としか思っていない所に
現状に問題の根がある、と私は思う。
「民衆」とて
そんな本音はとっくに見抜いている。
にも関わらず双方が不誠実な馴れ合い芝居
を続けなければならない。
こうした点については
現実の若者達の男女関係の方が
悠かに先を行っている。
或る意味で専門家はもっと謙虚に
身軽になるべきであり
「民衆」はもっと自信と責任感を持つべき
だと私は思う。
若い人々の男女関係を見習うべき
なのではないかと思う。
………
現在の科学技術の進歩は凄まじい。
極端な事を言うなら
各家庭に電話線を通じた専用機器を設置
する事によって、
ボタン一つで全国民の最終決断を仰ぐ事
等は至って容易な事だ。
それを不可能にしているのは
結局「民度」に関わる不安に尽きる。
そして、それは極めて当然の不安だ。
「民衆」は
余りにも国政運営の現場を知らなさ過ぎる。
知る為の基礎知識も時間も精神的ゆとりも
意欲もない。
まるで封建時代の女性のようだ。
現在のあらゆる現実状況が、
その事を当然としている。
しかし、その点に於いて
日本には大きな変化への可能性が潜んでいる
はずだと私は思う。
そこのところを是非なんとかしたいものだ。
以上に述べたように
例えば規制緩和の問題一つとっても
日本国民は今夜明け前の状態にいる。
現在の日本国民は今「進化」を迫られている。
そうした状況に対して人々は
「進化」を成し遂げ得る力を既に十分に
貯えていると私は感じている。
経済的にも文化的にも
「進化」の直前にあるのが
現在の日本国民なのだと感じている。
その事を是非とも理解してもらいたい。
これは進化を志す「民衆」としての私が
なし得る「創造者」への精一杯の提言だ。
次に
以上の問題提起を受けた解決への基本策
を示して本稿のまとめとしたい。
8 結語
「専門家」と「民衆」が築く未来
………
16年以上もの年月に渡って
私は心理学の巨大で貴重な機能を享受する
だけの「民衆」であり続けた。
「民衆」の心の根本の部分には
専門家に対する全面的な依存があり
甘えがある。
そのような依存や甘えの上に
専門家の現実に対する不満や嫉みや
自分なら更に上手く処理してみせるのに
というような傲慢な心理もある。
これらは
心理学の「民衆」である私自身が誰よりも
深く実感している事だ。
その実感に立った上で尚、
心理学の専門家の人々に提言したい事が
ある。
しかし
これは何も心理学の専門家だけに限らず
現在の日本の専門家の全てに対する提言
になるはずだと私は思っている。
更に続けるなら、
この提言それ自体が専門家に対する
「民衆」の依存、甘え、嫉み、自惚れ、
そのものなのかも知れないとも思う。
ともあれ、
現在の私は今回の提言の根拠として
心理学を巡る自身の体験しか
持ち合わせていない。
だから以降の提言は
単に心理学の専門家に対するものではなく
それを一つの実例とした全ての専門家
に対しての
「創造」を志す「民衆」からのものとして
理解される事を切に望んで止まない。
さて、
自身が受けた非常な恩恵にも関わらず
現在の心理学の専門家の人々は、
例えば余りにも経済問題にうと過ぎる
と私は主張したい。
これは建築や音楽や政治や経営
その他何でも構わないのだが、
例えば経済問題を自身の専門領域と
結びつけた
新しい心理学の「創造」等は思い付きも
しない。
一部の人々がそれを志そうとしても
卑しいとか無謀とかいった一言の下に
撥ねつけられるのが特に臨床心理の
専門家集団の大勢だ。
16年の自身の体験から
少なくとも私はそう感じている。
「民衆」を自身の専門領域からしか
扱おうとしないし理解しようとしないのだ。
「民衆」の底に潜んでいるはずの
無限の莫大な知恵やエネルギーを
探し求めようとは思いもしない。
もし、
こうした現状を変える事が出来たなら
心理学は
思いもよらない新しい鉱脈を発見し、
それによって思いもかけない
新しい世界を切り拓く事が出来るに違いない
と私は確信している。
そして先程も述べたように、
これは心理学に限らず全ての分野の民衆と
専門家の関わりの変革を通じて生ずる
日本の未来に対しても言える事だとも
私は確信している。
………